運営者プロフィール

大人しいのに活発という不思議な少女

生まれは秋田の由利本荘市。

あれは昭和59年。私が生まれた故郷は3月の春を運ぼうと・・・と歌の歌詞そのままに、海沿いの街で生まれました。(父はいます)

妄想全開でとにかくアウトプットの日々

祖父祖母、父母、妹という中で内弁慶だった少女は、幼稚園の頃から絵を書いたりレゴをしたり、とにかく創作が好きで特に指先を動かすことが好き。
オリジナルのきせかえ人形を作って服をデザインして着せてみたり、レゴで家を作ったり、折り紙で家具と部屋を作って人形遊びをしたり・・・
自分の頭の中を現実に表現できたとき、誰かに褒められなくても「おお、これはいい」と自画自賛&自己満足で事足りて、どんどん新しい作品を作っていました。

既製品をそのまま遊ぶ、ということは少なかったと思います。

授業中だろうが休み時間だろうが所構わず、とにかく頭の中は妄想や想像の世界出いっぱいで、それをひたすら書き出す日々。

常に面白い遊び方ないかな、とあれこれ考えては友達を巻き込み「大人しいけどなんだか面白い子」ということで、友達は意外と多く学校は楽しくて幸せな学生時代を送っていました。

幼少期

一方で、体を動かすことも好きで塀の上を走り回って落ちたり、土日はアスレチック公園で一日遊んでいたり、しょっちゅう転んではエタノールを綿棒で湿らせて自分で膝の治療をするという(良い子は真似してはいけません)変わった子どもでしたね・・・

それでも、両親はじめ祖母が「女らしく」「長女だから」「〇〇しなさい」と私を型にはめることなく見守ってくれました。私の根拠のない自信、打たれてもめげない諦めの悪さは、この家族の支えがあったからだと思います。

否定されずすくすく育った18年間は、今振り返ってみてもありがたく貴重な時間です。

パソコンとの出会い

小学校4年生の頃、親戚のお下がりでワープロをもらいそのメカニックなフォルムとキーボードにときめき、独学でブラインドタッチを習得しました。
絵を書くことと並行して機械を使っての表現も増え、高校生になってからはパソコンを買ってもらい、帰宅してほぼ毎日チャットに繰り出していました。

当時はDIONというサーバーを使っていたので、チャットはもっぱら「チャチャラ」
懐かしい・・・

チャチャラ

これは単なるチャットではなく3Dのアバターを使い天空のフィールドを自由に歩き、チャットで会話するというもの。

いろんな年代の人と会話できるのが楽しくてブラインドタッチのスピードは自然に上がっていき、高校生の情報処理の授業で必ずブラインドタッチの速度を計測するんですがすぐ打ち終わっちゃうので、いつもタイムキーパーを任されていました(笑

そんなこんな、あの灰色の初期ゲームボーイから始まり、PS、PS2とゲームにものめり込んでいきます。
その中でも一番好きだったのは、ワールドネバーランドと幻想水滸伝。

ワーネバ

今「私もー!」と思った方、お友達になりましょう(笑

創作も、絵から漫画、小説と紙で表現するものは全てやりつくし、高校を卒業するときに決めた進路は「ゲームを作る専門学校に行く」でした。

高校生のころ

自分を表現できないと悩んだ時期

パソコンとクリエイティブどちらも関わった2年間。

パソコン内部のことから、ゲームの作り方(シナリオからデザイン、プログラムまで)を学びましたが、それを仕事にしようとはどうしても思えず、無難な派遣の仕事に就職を決め茨城へ。
水戸駅で何気なく求人雑誌を見ていると、リラクゼーションサロンのスタッフ募集が目に止まりました。

これは・・・派遣よりおもしろそう!

と、思い立ったら吉日。

早速電話をして、リラクゼーション業界に足を踏み入れ、そこで出会った方と結婚。出産と「一般的な幸せ」の階段を登っていきました。

家族写真

家族の大黒柱である父が倒れる

幸いにも子どもを授かりますが、長男が一歳の頃に父が脳梗塞で倒れ、実家に帰りたいと夫に相談すると「お金がないから無理」「お店があるから無理」と止められ衝撃を受けました。


うちの父は寡黙ですが言葉にユーモアがあり、穏やかで私達兄弟にも優しく接してくれました。

父の姉は県外にお嫁に行ったのですが、たまに帰ってくると「ひー(父)が、小さい家でもこうやって守っていてくれるから帰ってこられるんだ」と感謝をし、祖母も祖父が亡くなってから「無口だけど優しく穏やか」な息子を頼りにし、母も「もー、お父さんってば」と言いながらも常に夫を立てていました。

圧倒的なリーダータイプではないけど、みんなが信頼して頼りにして、父も又それに答えて家族だけでなく町内の活動にも尽力し、よく色んな人から声がかかる人。

父が倒れたのは、好きなお酒やタバコもありますが(一度肝臓を悪くして入院した)家族を養うために朝は日の出とともに出勤し、夜も遅くまで働いてその合間の気分転換の缶コーヒーによる脳梗塞ではないか・・・という話でした。

そんな尊敬する父が倒れたのに、長女の私はこの茨城から動けないなんて・・・

その後父は倒れてからすぐ救急車が駆けつけてくれて病院に運ばれたので、右半身の麻痺のみで一命をとりとめました。
これで命を落としていたらどうなっていたか・・・今思い返してもゾッとするのと、動けない環境を選んでしまった自分への後悔と父への懺悔で今の私はいなかったかもしれません。

身動きが取れなくなり実家へ逃げ帰る

当時は自営業で夫が収入を握っていたので、一緒に買い出しに行き食費を買うときだけ出してもらう。というスタイルでした。
店と家としか往復しないんだから、使わないでしょ。店の支払いが先だ。と私の財布にはお金はありませんでした。

そんな中2人目が生まれ、唯一外部との連絡が取れていた携帯代が払えなくなり不通。

もう、これは限界だ。

と、子どもを抱えて僅かなへそくりを使い実家に逃げました。

向こうの親の説得もあり、数ヶ月で帰宅。
少しは自由がきくかもしれないと思ったけれど、結局変わりませんでした。

変わらない環境と消耗していく心

どんどん自分が自分じゃなくなっていく焦燥感、不安感。

子どもを授かれたのは幸せ。

だけど、私が私じゃなくなっていく・・・

どこで間違ったんだろう。なにがいけなかったんだろう。

夫より3歩下がる控えめな妻、自分の母のようになれると思ったけど生活は下降していくし、このままついていっていいのだろうか。
お母さんだから、子どもがいるうちは自分のことは後回し。

「これは一体、誰の人生なんだろう」

と思いながら、あの小さい頃のようなワクワクした創作意欲も全くわかず、ただ淡々と24時間をこなしている毎日・・・

自分の人生を生きる

そんな生活が6年ほど続き、3人目を妊娠。

つわりが酷くずっと体調が優れない中産まれた子を抱いて、ふっと「私このまま死んだら後悔する。まだ何もやれてない!」と生きる力が急に高鳴ってくるのを感じました。

もう、誰がなんと言おうと自分の人生を生きる。

そこからは、自分をどんどん表に露出していきました。
3人目が1歳半を過ぎたときに子どもを預け、午前はエステ、午後はアパレル、空いた日はリラクゼーションと掛け持ちで働き始めます。

掛け持ちは意外にも楽しく、自分が社会に必要とされていること、また自由に使えるお金があるありがたさを感じることができました。

少しずつ自分に時間とお金を使えるようになって、創作意欲、やりたいことややってみたいことが次々浮かんでくるようになり「起業」という道を目指すようになります。

起業の第一歩

とはいえ、今まで受け身だった仕事をどうやって自分の仕事にしていくのか。
私に何ができるのか全くわからないけど、最初はとにかく好きなこと、できることでお客様と対面していきました。

まず最初に開業届けを出し、好きな本のせどりを中心にネット書店。
そして、ミシンが使えたのでネコ型のホットパックを作っての販売。

更に、女性では珍しいね、と言われた易の見立て。
意外にも、長年やってきたもみほぐしは後回しで「場所を選ばず売れるもの」をとにかく数打ちしていた時のこと。

そのホットパックに興味を持ち、易の見立てにも応募してくれた女性に声をかけられつくばで初めてのイベントを開催しました。
当時打ち出そうとしていた、アンガーマネジメントと体のケアの体験イベント。

これがきっかけで、つくばで定期的にイベントを開催することになります。

するめ商店

調子づいた私は香取の全く知らないイベントに参加し、そこで主催の方と仲良くなり神栖でも定期的にイベントを開催することになったのです。

たくさんイベントに参加する中、出会った方に引っ張ってもらい、掛け持ちの仕事を少しずつ手放していきました。

当時車がなかった私は、移動手段はほとんど電車で施術のときは大きい簡易ベットをえっちらおっちら運びながら行っていました。
次男もよく仕事についてきてくれて、子育てサロンなど子どもがいても良い場所での仕事のときはほとんど一緒だったように思います。

それもまた、一人で活動していた私には頼もしく支えにもなっていました。

自分らしく在るように

起業もし、自分の基盤が少しできた頃、子どもを連れて離婚。

その時に、色々と手助けをし、時には笑わせ、支えてくれたのが今の夫です。

モジャとの出会い

新しい夫婦のカタチ

もう結婚はいやだ。夫はいらない。
と言ったとき、「俺が嫁になる」といった変わり者の夫。

「結婚が嫌だったらハピネスはどう?俺とハピネスしない?」と持ちかけてきた夫と、子ども3人を連れて再婚することになりました。

当時は起業していても売上が今一つで貯金を切り崩していたという々ですが、家族ができたことできちんと「お金をいただく」ことができるようになり、生活はだんだん豊かになっていきました。

光熱費が払えない、ご飯は白米だけ、子どもの服はいつもお下がりでサイズが合ってなくて、靴は実家に帰ると「新しい靴買いなよ・・・」とお金を渡されるほどボロボロに履きつぶしていた前の生活。

私がやりたいことがある、と言っても「お金がないから無理」「お店優先でしょ」と挑戦するチャンスも与えられず、何かの拍子でそういうチャンスが巡ってきてもちょっと失敗しただけで責任を問われ、確実に一回で結果を出さなくてはいけないというプレッシャーが常につきまとっていた日々。

夫は、私が言うのもなんですが自分のことは後回しでも「助けて!」と言われたら県外でも駆けつけ、親身になって話を聞き自分ができることを全力で相手に与えます。
子どもたち3人とは血はつながってませんが、普段は友達のように、でもやはりここぞというときには父の威厳を持って接してくれました。

子供のことで今でも忘れられないのが、次男に対する前夫の態度です。

長男のことは可愛がっていたのですが、次男に対して「自分に顔が似てて自分を見ているみたいだ」「子どもに思えない。犬とか猫とかペットの感覚に近い」「申し訳ないけど、長男みたいに可愛いと思えない」と言う発言があったこと。

それでも、「母親である私が愛情を注げばいいんだ。この子たちは何があっても離さない。私が守る」と気張っていたのもあって、だんだん夫婦のつながりが疎遠になっていったところもあります。

でも夫は子どもたち一人ひとりを見てくれて、一人の人間として尊重してくれて、それは私にとって今まで背負ってきた「母親が子どもを守らなくてはいけない」という責任から解き放たれた瞬間でもありました。

そして「俺が嫁になる」の宣言どおり、私の活動ややりたいと言ったことを応援してくれ、失敗してもコケても責めることはなく、私がやり直したり立て直したりするのを見守ってくれています。

それは、私が実家で受けてきた「家族」の支えに近く、そんな環境があるからこそ子どもがいても、主婦でも、創作意欲をもって活動出来ているのだと思います。

やりたいは諦めなくていい

個人プレーな二人が出会い、家族になると毎日本当にドタバタにぎやかですが、やりたいことにチャレンジすることを応援してくれる夫、個性豊かな4人の子どもと暮らす日々は素直に「生きるって楽しいな」と思わせてくれる大切な時間です。

2023年には第5子も生まれ、7人家族になった我が家ですが、今ではそこに事業で運営するシェアハウスの住民も加わって、8人〜10人の家族になったりしながらわいわい過ごしています。